Immersed in Technology – Art and Virtual Environments 序章
日常生活に新技術が取り込まれるのはもはや新しいことではなく、それが当たり前のこととして受け入れられている。しかしこれは同時に、技術の発展による文化的影響に関する議論を活性化させている。
matsuzen.iconインターネットで人々が距離を無視して交流する物の近い例で行くと、SNSの発達・受容がありえるか。
VR技術は当初、今までの技術と異なる革新的なものとして期待された、しかし本書では今までの技術発展の中にあるものとして捉える。本書ではVR技術が発展する中でもたらされる、社会的・文化的・倫理的・政治的課題や、将来的な影響を検証することに主眼を置く。
重要な要素として、「経験の非物質化」という要素がある。(非物質的な)仮想空間では人間の存在をプログラムできる可能性が存在するが、それは同時に大きな疑問を突きつけ、新メディアに対する大きな騒動の要因ともなる。
仮想空間という技術が存在する一方、我々は依然として物質的な世界(現実世界)で活動している事実は変わらない。
matsuzen.icon仮想空間が発展し、より現実世界に溶け込んでも、物理的制約は消えることは無い、しかし、それらは無視されやすくなる。インターネットにおける距離も、画面上での交流のSNSからVRを用いた身体コミュニケーションに発展することで、物理的制約は見えにくくなる。
テクノロジーは世界全体に浸透しており、テクノロジーが主体の仮想空間から離れようとしても、そこからなる影響から完全に逃れることは出来ないとマーガレット・モースは指摘している。
本書ではバーチャルリアリティ(virtual reality)という言葉ではなくよりセンセーショナルでない仮想環境(virtual environments)という言葉を使う。
新しい技術の特徴として、情報の送受信が瞬時に行われる継続時間の消失(=時間のリアルタイム化)がある。瞬時に情報が遅れるのは便利な一方、それまでの継続時間がもたらしていた考える時間が失われている。
ポール・ヴィリリオはリアルタイム技術により、「ここ、今現在の具体的な現実・存在感」が切り取られ、不安定な離散的テレプレゼンス(=身体的な連続性の欠けた、重みの無い薄っぺらい存在感)へ置き換えられる事を警告している。
matsuzen.iconロラン・バルトの明るい部屋にある「それはかつてあった」というリアリティが、今のインターネット時代において「いまそこにある」という状態にすり替わっている状態に似ている? 本書では離散的テレプレゼンスに対して、結論を出さず未解決の課題として提示し、それらの技術の肯定も否定も行わない。むしろ、必要なのはその発展により発生する利害関係であり、それをを客観的に理解することを試みる。
理解する過程で、サイバースペースを曖昧な可能性や価値を孕んだ領域と捉え、サイバースペースの内と外でいかに意味が構築されるかを考察する。
インタラクティブメディアや没入型メディアは、従来の距離を取って見るメディアと違い、鑑賞者自身が作品の内部に取り込まれる(没入する)必要がある。しかし、それを客観的に批評するには同時に距離を取らないといけないという矛盾が存在する。
matsuzen.iconVR作品の展示の難しさの一つでもある
バンフ芸術センターではこの矛盾について議論された。キャサリン・リチャーズとネル・テナフはBioapparatus residency(バイオアパラタスのレジデンス)というレジデンスを開催し、その中で芸術と技術の背景を持つ人々が議論を行った。
バイオアパラタスのレジデンスは自由な開発と制御された世界の実現を夢見るVR支持者と、技術が権力や社会に与える影響について責任を問うVR批判者に分かれ、それぞれの意見の相反を浮き彫りにさせた。
VRはノーバート・ウィーナーが「コミュニケーションと制御の科学」と呼んだサイバネティクスに基礎を置いて構築されている。これは人のあらゆる環境をプログラミングしようとする技術です。一方、インターネットは既存の権力構造から人を「解放」するツールとして期待されている。
matsuzen.iconVRは身体をプログラミングによって制御(=支配)するシステム。インターネットは既存の権力構造を解体すると期待されているが、インターネットは回線や電気など地理的制約からは逃れられず、むしろコミュニケーションがそれらを必要とするインフラ化することで支配がより強まるのではという疑問がある。
matsuzen.iconVRの場合、言語コミュニケーションにとどまらず、身体・空間そのものがインフラ化して管理の対象となりうる?
サイバースペースでの人種やアイデンティティの議論は、サイバースペースにおける仮想の身体では、本当に肉体は失われているのか?それとも身体は肉体と情報の組み合わせなのか?という物質的な身体の問題に帰結する。
サイバースペースを非身体的な媒体とみなす風潮に対して、仮想と現実を統合する新たな主観性の構築が必要だという主張が存在する。
matsuzen.icon現実は男性だが仮想空間では女性のアバターを使う、なりきるといったことがあるのでそれに近い?→メタバース進化論との関連性? これは女性が長く慣れ親しんだ主観性と重ね合わせることができるという視点が提示されている。
デジタル空間では人種や階級といった二項対立は消滅したかのように扱われがちだが、実際にそうなる兆候はほとんどない。
むしろ新たな主体性の構築があるにもかかわらず、実際にはサイバースペースにおいても旧来の社会パターンや権力関係が繰り返されている。
matsuzen.iconVRChatで日本人パブリックコミュニティが閉鎖的という話題がある、主に日本人コミュニティワールドの入り口に日本人しかわからない問題を出し、それにクリアしないとその先でコミュニケーションを取れないというもの。仮想空間になり、さまざまな制約が減ったはずなのに現実世界の閉鎖的な風習、文化がそのまま発生している点に近い?
matsuzen.icon単に非英語圏の日本の言語的な問題もありそうだが→けど韓国や中国はそれに類する物があまり無い(知らないだけかも)
仮想環境に対する身体性、現実、共同体といった概念は再検討されているが、これらは聴覚芸術の実践などで既に議論された歴史がある。しかし、サイバースペースにおけるこれらの実践の結果はまだ不明である。
新技術で既存の社会を変える試みは、この技術の起源における問題で障害に直面することがある。
インターネットとVRはどちらも当初軍事目的に開発され、男性中心的・合理主義的なバイアスが根強く残っている。
湾岸戦争では戦争を外科手術のように見せることで、人々の場所や接触、汚染に対する感覚を変容させた。これはサイバーペースをはじめとしたテレプレゼンスの共同体の不在という倫理的問題を浮き彫りにさせた。 matsuzen.iconSNS時代の現在ではインターネットにおける共同体の不在という問題はあまりない?(○○民、インターネット住民的コミュニティの存在、常に人々に情報が監視され、指摘・批判・炎上される)
技術開発は商業利益や、そこからなる(商業主義に植え付けられた)社会の持つ技術進歩への絶対的な期待によって加速する一方、その背後に存在する環境への影響や仮想性を追求するにあたる代償についての考察は不十分である。
こうした状況に対して、物質的な環境と深く結びつき、それに対して責任を負う先住民的な思想が、逃れることのできないサイバースペースにおける物質的な問題への洞察を与える可能性がある。
新しい映像技術は軍事、商業、芸術の各界でそれぞれ開発され、動機も異なるかもしれない。しかし芸術家は企業や機関への技術アクセスに大きく依存しており、それを得るために収益性や商業的価値を示さなければならないという厳しい制約がある。
一方芸術家は、イメージが社会にどのように影響を与えたかを示す経験があり、これはイメージが商業価値を持つ時代において最大の強みとなる。
この領域で活躍する芸術家は、産業的な制約と自身の目的の板挟みの中で、常に自身の立場や美学的戦略を再構築・再交渉し続ける必要がある。
娯楽を目的に作られたサイバースペースで見過ごされがちな社会的な変化や、文化形態の可能性についての問いを形にすることが芸術家の役目であるとマーガレット・モースは述べている。
matsuzen.iconどの分野の芸術でも言えそう......
バンフ芸術センターでは、新しいメディア作品への支援(生産)と技術の持つ利害関係やイデオロギーについての問い(検討)という二つの側面の両立を目指している。本書もその姿勢を反映させ、企業と新たな技術の発展を進めつつ、常にそれに対して批判的な視線を向けている。収録された作品を通じ、芸術と文化における技術の存在が、いかに影響を持つか示す。